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草野心平と蛙(ただの感想文です。)

高村光太郎の序文

 草野心平は、「第百階級」という蛙の詩だけを集めた本が最初の活版印刷詩集であり、また、一連の蛙に関する詩により第一回読売文学賞を受賞するなどまさに「蛙の詩人」と呼ばれるにふさわしい詩人である。
 この「第百階級」には、あの高村光太郎が序文を書いているが、そのなかで、草野心平を、

『彼は蛙でもある。蛙は彼でもある。しかし又そのどちらでもない。それになり切る程通俗ではない。又なり切らない程疎懶ではない。真実はもっとはなれたところに炯々として立っている。』


と表現している。

 蛙であって、蛙でない。これは実際の詩を読むとよくわかる。様子を客観的に描写する蛙詩もあれば、蛙の言葉を通して主観を表現する蛙詩もある。「第百階級」の中の「秋の夜の会話」という詩があるが、これは、二匹の蛙の会話を詩にしたものである。もちろん蛙が話をするわけではないので、作者は蛙の気持ちを代弁しているという風にみえる。「ごびらっふの独白」にいたっては、蛙に「蛙語」を喋らせ、その日本語訳をつけている。(ベタベタのギャグのようでもあるが・・・)。
 その一方で、「ぐりまの死」のように客観的な視点で、冷徹な事実を見つめる詩もある。
 前者で、作者は蛙になっているともいえるし、後者で蛙の観察者になっているともいえる。であるならば、高村光太郎のいう、「なり切る程通俗ではない。」とはどういう意味か。

 猫が迷子になって、犬のお巡りさんが登場するような人間以外の生物の擬人化は腐るほどにある。蛙を擬人化して、人間の言葉を喋らせ、蛙の世界の中で物語を展開することも、他の動物に負けずよくあることである。これはある種、蛙への「なり切り」ではあるが、実際のところ、人間社会の視点、常識に、蛙のキャラクターとしての特性(水辺での生活であるとか、卵を産むとか、子供はおたまじゃくしであるとか。)を加えて、人間の物語を進めているだけのケースが非常に多い。このような「なり切り」(実は蛙を自分に引き寄せているだけ)を「通俗」と表現したのだろうか。その後に続く「又なり切らない程疎懶ではない。」とあるように、蛙の心情を敏感に感じ取り、表現する(もちろんこの場合でも「人間の言葉」には違わないのだけれど。つきつめれば本当に「なり切る」ことはありえない。)ことはあったとみるべきであろうか。

 多数の詩を読んで明らかに感じることは、「草野心平は蛙の口を借りて自己の思想を表現するような安易な詩人ではない。」ということである。蛙の口から語られることは、蛙の本質から発せられるものとして強い説得力をもっている。草野心平は蛙を道具として用いたのではない。蛙から離れて成立する思想を表現したかったわけではない。彼の蛙の詩と、題材となった蛙との間には、必然の関係がある。

 その意味で、さすがに高村光太郎の序文は適切な表現だなあというありふれた感想。



本人は・・・?

 草野心平自身は、「蛙の詩人」と呼ばれることをどう感じていたのだろうか。

 草野心平は蛙の詩だけを集めた詩集を生涯に4冊(「第百階級」、「」、「定本蛙」、「第四の蛙」)出しており、こう呼ばれるのもある種当然といえば当然なのだが、例えば、「第百階級」の覚え書の最後に「ぼくは蛙なんぞ愛してゐない!」という強烈な宣言があるし、また、「草野心平全集」の第2巻著者覚え書には

『蛙と富士山の詩人などと、よく言はれたり書かれたりする。詩は書かれてゐるときは作者と一体だが、本になつたりすれば作者をはなれた独立体になるのだから何を言はれようが構わない筈だが、蛙と富士山の詩人などと言はれるのを私はあまり好きぢやない。むしろ只の詩人とだけ言はれたい。
蛙の詩は「第百階級」他三冊、「富士の全体」をいれて不尽の詩集は三冊だから、割合書いてはゐるが、それらよりもむしろ天に関するものの方が或るひは多いかもしれない。詩集「天」「全天」(普通では見えない地球の向う側のも入れての天の意)「雲気」「大白道」「玄玄」(玄玄天・玄玄大地の意)といった具合に。
どんな風に言はれてもさして痛痒は感じないが、七十八歳の今頃になつても「凸凹」の"Zigzag Road"がどうやら自分に相応しい象徴的詩集名のやうな気がする。』

とも書いている。

 このような心平自身の記述を見る限り、「蛙」を詩にする人間と見られることは、あまり好ましいことではなかったようだ。
「蛙の詩」を書いていたのではなく、「詩」を書いた。詩人草野心平が必然として詩にした題材にたまたま多く蛙があった。そんな意味であろうか。
 しかし、そもそも「蛙」をテーマにした詩だけを集めて詩集にするということ自体、「蛙」を強く意識しなければできないことだし、意識的に蛙を題材にとったケースも少なからずあるはずである。
 詩集「第四の蛙」の覚え書Iには、

『蛙の「定本」を出そうなどと思ったことの一つには、もう蛙も年貢の納めどきだろうから、この辺りで自選の定本を、という意味あいがあったのだろう。けれども実際は少しばかりハメをはずすことになってしまった。その結果がこの「第四の蛙」である。』

との記述がある。
 おそらく、「定本蛙」を出版したことで、「蛙」にけじめをつけたつもりであったと思われる。しかし、やはり蛙に立ち返ってしまう。そうして「蛙の詩」が溜まっていって「第四の蛙」ができた。
 「第四の蛙」には、覚え書がIからIVまであるが、覚え書IVには、

『その後にできた詩を二つつけ加えた。終り。(けれども蛙に関する詩がこれで終ったとは言いきれないような気もする。)それはそれとして「第四の蛙」は先ずは一応の終結ということにしたいと思う。』

とあり、結局のところ蛙との縁が切れることはなさそうであることを匂わせている。事実、この詩集のあとも、一冊の詩集になることはないものの、ぽつぽつと蛙の詩は発表されることになった。

 「第四の蛙」の最初の詩は「」である。心平のところに蛙が訪ねてきて家に泊めてくれという。心平は『おれはねえ。君たち仲間に親愛があるなんて言われたりもするが。買いかぶっちゃいけねえよ。』と答える。蛙は『お金はずっしりあるんだがなあ。』なんて応酬する。

 この詩はなんとなく、心平の照れ隠しのように読める。―また蛙の詩集をだしますが、そんなに蛙が好きなのかといわれると、そういうわけではないんです。なかなか金になるのでね― なんて言い訳しているように。
 訪ねてきた蛙は最後に心平の肩で『もうもうたる煙』になり、まさに蛙と心平は一体となる・・・

 彼は間違いなく、蛙を愛している。



蛙の扱い

 草野心平は蛙をどのような生き物としてとらえていたのだろうか。実は最も初期に、かなり明確に宣言している。 詩集「第百階級」の扉には、四行の題詞が書かれている

蛙はでつかい自然の讃嘆者である

蛙はどぶ臭いプロレタリヤトである

蛙は明朗性なアナルシスト

地べたに生きる天国である

 初期の草野心平の詩は、アナーキズムの思想が色濃く反映されているといわれる。題詞を見る限り、心平にとって蛙は理想的なアナーキズムの実践者に移っていたように感じられる。
自然の中で、自然の摂理の中で、思い悩むことなく、支配・従属の関係もなく・・・。

 「第百階級」の覚え書には、『蛾を食ふ蛙はそのことのみによつて蛇に食はれる。人間は誰にも殺されないことによつて人間を殺す。この定義は悪魔だ。蛙をみて人間に不信任状を出したい僕はその故にのみかへるを憎む。』とある。
 自然の食物連鎖の中に組み込まれ、他の生物の食料になる可能性の中にいることが、他の生物を食料とすることの正当性を担保する。人間は自然の枠外に出て、あるいは食物連鎖の頂点に立ち、もはや正当性の担保がない。互いに殺しあうことによって、その正当性を無理やり獲得しようとする(もちろん蛙だって共食いは行われるし、大きな蛙が小さな蛙を餌にすることも日常茶飯事ではあるのだけれど。)。その不幸というか悪夢を持たない蛙のなんと幸福なこと!

 前にも書いた「ごびらっふの独白」という詩には、

おれの単簡な脳の組織は。

言わば即ち天である。

という部分がある。単純であることは自然の中であるがままに生きられるということである。アダムとイブは、知恵の実を食べて楽園を追放された。すべてのものに死が訪れることを自覚し、たえず死に向かう自分を意識することによって、人間は死ぬ。死を恐れることにより、不幸が始まる。現在をあるがままに生きる蛙は、過去もなければ未来もない。未来がないということは、死がない、ということと同じである。死のない蛙は悩みもなく、いまだ楽園の中にいる。

 そして、「白い蛙」という詩には、次の部分がある。

侏羅紀以来。

蛙の世界に神はない。

性が社会。

歌が政府。

そして全部が平凡な庶民だった。

 社会は集団と規範により構築され、その規範を作成し集団に適用するシステムが政府である。人間が「神」を意識した瞬間、すべてに序列が発生し、それは規範として社会に組み込まれ、支配・被支配の関係を方々にもたらすことになった。
 蛙の世界に神はなく、社会は快楽原則のみにより構築され、歌を共有することにより、緩やかな連帯関係をもつ。幸福な世界。

 と、いろいろ書いたものの、心平自身が「蛙になりたい」と思っていたとは到底思えない。アナーキズムのひとつの象徴として蛙のイメージがあっただけであって、蛙が幸福だと信じていたとも思いにくい。

冬眠」という詩には、

食べることを断ち暗闇で僅かに稀薄な空気だけで生きていることは。それこそ富士山のように大きな忍耐かもしれませんが。この忍耐が共通なら。そして共通であることから。ぼんやりそれが愛の方向に移行します。事実わたくしたちが共に生きていることをほんとうに感じますのは。共共に生の歓喜を歌い合った地上の春や夏ではなくて。この暗闇のなかでです。

とある。この冬眠のイメージは、いろんな詩で現れるが(前述「ごびらっふの独白」等)、このようなあり方を、人間社会の理想として蛙に投影したものが、草野心平の蛙なのだろう(もちろん一面に過ぎないとは思う。)。
 すなわち、孤独で暗いなかでじっとしている蛙は、他者との直接のふれあいはまったくなく、しかし、このような生き方を共有する仲間があり、まさに同じようにじっとしていることを互いに感じることによって、緩やかな連帯感を獲得する。このほのかな連帯感で結びついた蛙の社会は、皆が幸福であるだろう。

 人間も、「同じ人間である」というのみの緩やかな連帯感により結びつき、その結びつきのみがシステムである社会に生きられるなら・・・。そんな理想があったのかなかったのか。

 では私は蛙になりたいか?いや、なりたくない。

END