「黄帝」は歴史前の神話のような世界の人ですが、「黄帝」の名前を付した書物は、もちろん後代になって黄帝の名前を借りて書かれたものであることは、すでに述べたとおりです。この「黄帝蝦蟇経」はいつ頃成立したものなのでしょうか。 実をいうと、この黄帝蝦蟇経の原本といいますか、成立当初に書かれた中国の版というのは、今は失われてしまって、日本版しかない古典籍なのです。現在残っているのは、丹波元胤という江戸時代の医者が、文政六年(1822年)「衛生彙編」という医書の古典籍の写しを集めた本を出版した際、第一集におさめられたもので、今回画像として使用したのも、その写しということになります。 この「衛生彙編」に、元胤が書いたところによれば、この「黄帝蝦蟇経」は、平安時代から、医官を務めていた和気家に伝わっていた巻軸装のものを借り受け、元胤の父親の元簡が書き写していたものを、元胤が冊子に改めて出版したのだとか。 でも、元の和気家に伝わっていたはずの巻軸については、今はどこにいったのか分からなくなっています。 古い中国の医書であることは間違いないのでしょうが、結局の所、いつ頃からあるものかははっきりしていないというのが本当の所のようです。 この謎に包まれた(大袈裟?)「黄帝蝦蟇経」の成立時期について検討した論文がありましたので、御紹介しておきましょう。 関西大学の坂出祥伸教授が書いた「黄帝蝦蟇経について-成書時期を中心に-」(東洋医学善本叢書第29冊 1996.2 オリエント出版 )という小論がそれ。 この論文では、三つの角度から分析していて、まず、月に兎と蝦蟇が住むという伝承がいつ頃成立したものなのかを検討し、また、他書への引用の状況等から、おそらく後漢末から東晋時代の間(3世紀初から4世紀頃)と推定しています。 この推定が妥当かどうかの判定は、もちろん当「かえるクラブ」でできるようなものではないので、無条件で信じるとすれば、現在我々が知っている「黄帝蝦蟇経」は、成立から1500年以上たってから現れたものだということになります。 この1500年の道のりの中で、何人が書き写していたのかはもちろんわかりませんが、かなり伝言ゲームのような状況である可能性が高いですね。原本からどれだけ乖離しているのか。特に気になるのは、やはり「絵」の方でしょう。みんなきちんと模写ができる程絵が上手かったのでしょうか?実は途中に絵の下手な人が混じっていて、そこから全然違う絵になっていたりして。 この「黄帝蝦蟇経」については、2001年にちょっとした発見がありました。岐阜県川島町にある内藤記念くすり博物館が所蔵する和漢の古典籍の中から、「衛生彙編」出版以前の、丹波元簡が模写した巻軸装のものから模写されたという「黄帝蝦蟇経」が発見されたのです。この発見については、森ノ宮医療学園専門学校が出版している雑誌「鍼灸OSAKA」の61号に記事となっていますが(長野仁 「黄帝蝦蟇経」臨模影写旧鈔本の出現)、同じ号のグラビアページにその発見された「黄帝蝦蟇経」の一部が載っています。 発見の重大さがどの程度の規模なのか、そんなことはともかく、この蝦蟇経、絵がド下手。試みに満月十五夜の絵を比べてみましょう。左が、衛生彙編版、右が新発見版です。 ![]() ![]() とても同じ絵とは思えないでしょ?そもそも月ン中にいる蝦蟇が小さすぎ!しかも、この蝦蟇、他の日の絵だと大きさ変わってたりします。 1500年の間に、これ程絵が下手な人が写した版が挟まっていたら、今知られている「衛生彙編」版の絵は、元の絵と大分違っているんでしょうねえ。そんな心配をしながら、新発見版の中でももっとも間抜けな、短足の絵を見ながらお別れということにいたしましょう。 ![]() それにしても下手だ・・・・ |