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古池に飛び込んだ蛙−芭蕉庵を訪ねて

 ※ 引用文中、文字フォント、文字色等を変更して強調している部分は、当サイトで付したもので、原文とは関係ありません。

■ なぜか小林亜星から ■

「古池や 蛙飛こむ 水のおと」

 俳聖芭蕉翁の、蕉風開眼の句といわれ、今でも、「知っている俳句を上げてください」と聞いたら(日本では)おそらく1位になるだろうというこの俳句、ここに蛙が登場しているところが、今回の話のポイントです。
 「蕉風」がどういう句を指すのか、当かえるクラブはそんなことを知っているはずもありませんが、何か偉そうでしょ。「芭蕉は古池に飛び込む蛙を見て(?)、蕉風に開眼した」なんてフレーズ。ということで、今回はこの俳句をレポート。


 この句を聞いて思い出すことといえば、やはり、「小林亜星VS服部克久 盗作裁判」でありましょう。(ちがうか)
 服部が作曲した、あっぱれさんま大先生のエンディングに使われた「記念樹」という曲が、亜星の作曲したブリジストンCMソング「どこまでもいこう」のパクリであるということで亜星が提訴したこの裁判、平成12年2月に判決が出、亜星の敗訴となりました。

 実際、裁判で曲の同一性が争われる、ってことはそれほど例がないそうですが、訴訟を提起された東京地裁も判断に困ったことでしょう。判決はまず、二つの曲の同一性は、メロディーの同一性を第一に考慮すべき、として、
「本件のように、ある楽曲全体が別の楽曲全体の複製であるかどうかを判断するに当たって、メロディーの同一性は、一定のまとまりを持った音列(フレーズ)を単位として対比した上で、それらの対比を総合して判断すべきである。 」
と判断、二つの曲をフレーズに分け、一フレーズごとに、検討していきます。こうやって書いてみると、そんなに可笑しくないですが、その比較の方法を実際に読んでみると、実に真剣かつ間抜けで、自然と笑いがこみあげてしまいます。例えば、「どこまでもいこう」の「道は〜厳しくとも〜」というところを比較したところを見てみましょう。

フレーズBとフレーズb

・フレーズB「ドドファーファファファソラソーーー」
       (みちはーーきびしくともーーー)

・フレーズb「ドドファファファファララソ#ファソーーー」
       (みんなでうえたきねんじゅーー)

 右のように、フレーズBとフレーズbは、冒頭の「ドドファ」とそれに続く八分音符三個分、その後の八分音符二個分を経た後の八分音符「ソ」及び末尾の「ソー−−」において相対的な音階が共通するが、フレーズ同士を全体として比較すると、前半部分の音階の変化を共通するに過ぎず、前半部分においても、音符の数及び長さは異なっている上、後半部分は、音階も明らかに異なるから、これらのフレーズに同一性があるということはできない。

(東京地裁 平成12年2月18日判決 判例タイムズ No.1024)
こんな風にして曲を最後まで見るわけです。で、同一性はないから、亜星敗訴というわけ。
 判決文に興味がある方は、小林亜星のマネージメントをやっているアストロミュージックのページに判決全文が載っています。
http://www.remus.dti.ne.jp/~astro/hanketsu/hanketsu_1.html
ついでに亜星公式ページも。
http://www.remus.dti.ne.jp/~astro/asei/asei_files/index.html

亜星の顔  なんでこんな話をしだしたのか忘れてしまった人もいるのではないでしょうか。「古池や蛙飛こむ水のおと」です。

 敗訴した亜星は、この2000年2月18日の判決日当日、都内ホテルで会見しています。この会見の中で、
「1小節のうち1音でも違っていれば同一性はないという。まったく音楽というものが分っていない裁判長だ。」
「俳句で『古池に蛙飛び込む音がする』と詠んだり、『モナリザ』に髭をはやした絵を描いて『私の作品です』と言っていいのか。」
と激怒。控訴して徹底的に争う姿勢を示しました。

 この控訴審がどう進んでいるかは(ひょっとして人知れず終っていたりして)知りません。でも、出てきましたね。「蛙」。

 「古池に蛙飛び込む音がする」と詠んでいいのか、という点ですが、何かピントがずれているような気がしませんか?
 もとの句を知らない人はいないといっていいくらいだし、それが芭蕉の作であることも、これまた周知の事柄だし。なにより、「古池に蛙飛び込む音がする」では俳句としての雰囲気がまったくなく、これを「自分の句だ」といって発表した所で、無視されるだけでしょう。

 オリジナルが知れ渡り、有名であるほど、盗作してみても意味がありません。ただ、オリジナルが有名で権威あればあるほど、それをパロディにして権威を揺さぶることは結構有効かと。

 ということで、「古池に蛙飛び込む音がする」はあり。どうせ著作権切れてるし

 と思っていたら、「古池に蛙飛び込む音がする」をホントに発表している人がいました。
西脇順三郎のつもり  西脇順三郎、シュールレアリズムの詩人として有名な人ですが、この人の詩集「鹿門」の中に、「屑屋の神秘」という詩があります。
 その詩には、さらに小さく題がついて、それについての詩が書かれるという構造になっていますが、そのうちの一つ「崇高な諧謔」を見てみましょう。

崇高な諧謔


 古い池の中へ

 かえるがとびこむ

 音がする


(西脇順三郎『鹿門』1970年 筑摩書房)
(『定本 西脇順三郎全集 第三巻』 1994.2.20 筑摩書房)
 この詩の本当の意味はわかりませんが、(シュールレアリズムなら意味すらないかもしれませんが)、蕉風開眼、深遠な句、はたまた禅の心が表現されている、というような権威付けられたこの句に対し、蛙が池に飛び込んだ、それだけだろう、と皮肉っているようにも見えます。このあたりは、明治の俳人正岡子規の考えにも結構近いかもしれません。


 正岡子規の俳論「俳諧大要」の中に、俳句を始めようという人が注意すべき点を列挙しているところがあります。

一、初学の人俳句を解するに作者の理想を探らんとする者多し。然れども俳句は理想的の者極めて稀に、事物をありの儘に詠みたる者最も多し。而して趣味は却て後者に多く存す。
例へば

古池や蛙飛び込む水の音 芭蕉

といふ句を見て、作者の理想は閑寂を現はすにあらんか、禅学上悟道の句ならんか、或は其他何処にかあらんなどゝ穿鑿する人あれども、それは只ヾ其儘の理想も何も無き句と見る可し。古池に蛙が飛びこんでキャブンと音のしたのを聞きて芭蕉がしかく詠みしものなり。

稲妻やきのふは東けふは西 其角

といふは諸行無常的の理想を含めたるものにて、俗人は之を佳句の如く思ひてもてはやせども、文学としては一文の価値なきものなり。

正岡子規 俳諧大要 (坪内裕三 中沢新一編『明治の文学』第20巻(2001.7.20)所収)
 其角という人は、芭蕉の弟子です。挙げられた句は、有為転変の人生を寓する句として有名です。子規は芭蕉の古池蛙を、事物をありのままに詠んだものだととらえるべき、としているわけです。もちろん、だから駄目だと言っているわけではなく、事物ありのままの句の方が、いいものが多いとしており、逆に、「理想的の者」の例として芭蕉の弟子の作をあげ、「文学としては一文の価値なきもの」と切って捨てています。確かに、変に裏読みするより、「古い池の中へかえるがとびこむ音がする」情景が浮かび上がる句ととらえた方が、味わいがあるかもしれません。


LHOOQ  ちなみに、亜星のコメントの中にあった「モナリザ」に髭を付けて自分の作品だ、と言った人もいます。
 マルセル・デュシャンというダダイズム芸術家が1919年に発表した「L.H.O.O.Q.」という作品。これは、絵葉書に印刷されたモナリザのうえから、鉛筆で口ひげとあごひげを描いて、欄外に「L.H.O.O.Q.」と書いただけのもの。「L.H.O.O.Q.」は、アルファベットをフランス語読みすると、「エル.アッシュ.オ.オ.キュ」⇒「Elle a chaud au cul(彼女の尻は熱い。欲情している、というような意味。)」。まあ、駄洒落ですね。この人はご丁寧に、今度は何も落書きしていない絵葉書の欄外に「髭をそられた(rasee)L.H.O.O.Q.」と書いて作品にしてしまいました。
 かえるクラブでも恐ろしく適当に作ってみました。芸術?

 亜星、ダダイズム・シュルレアリスムに喧嘩を売るとは。
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