[ Top ] [ Reportに戻る ] [ なぜか小林亜星から ] [ 蛙合 ] [ 古池蛙句をもう少し ] [ 芭蕉庵跡を訪ねて ] [ 芭蕉愛好の石蛙 ]

古池に飛び込んだ蛙−芭蕉庵を訪ねて

 ※ 引用文中、文字フォント、文字色等を変更して強調している部分は、当サイトで付したもので、原文とは関係ありません。

■ 芭蕉庵跡を訪れて ■

 さて、では、芭蕉が古池蛙の句を詠んだのは、どこなんでしょうか。先ほど芭蕉の弟子支考の『葛の松原』から、「春を武江の北に閉給へば〜」という部分を引用しましたが、この「武江の北」とは、深川の芭蕉庵を指しています。ということは、この句は芭蕉庵で詠まれたものだということになります。
 とすると、問題は、「芭蕉庵はどこにあったか」という点です。

江戸名所図会  「江戸名所図会」(斉藤長秋著、長谷川雪旦画、1834〜1836刊行)という本の中に、「芭蕉庵」の画が出てきます。どっかで見たような画でしょ?この後に出る芭蕉庵の画はだいたいがこれを下敷きにしていて、どんどん記号のようになっていきますが、その原型がこれ。
  芭蕉が死んだのは1694年ですから、もう死んでから140年ぐらい経っています。芭蕉庵も当然なくなっているわけですが、この本の中に「芭蕉庵旧址」について述べた部分があります。

芭蕉庵旧址

同じ橋の北詰松平遠州候の庭中にありて古池の形今猶存せりといふ 延宝の末桃青翁伊賀国より始て大江戸つり来り 杉風の家に入後剃髪して素宣と改む 又杉風子よくよく芭蕉庵の号成譲請夫々うつして後此地に庵を結ひ 泊船堂と号すと
杉風子俗称を鯉屋籐左衛門といふ 江戸小田原町の魚牙子たりし頃の生簀やしきなり 後此業をもださりしかば生州に魚もなく 自水面に水草覆ひしにより古池の如くになりしゆへに古池の口ずさミありしといへり

(江戸名所図会 巻之七 揺光之部 第十八冊)
活字でなかったので、読むに読めない部分が多く、嘘ばっかり書いているかもしれませんので、ここから引用しない方がいいですよ。恥をかきます。
 それはさておき、文中「同じ橋の北」と言っているのは、この前の項の「天王山霊雲院」が万年橋の南となっていたからで、万年橋の北の松平屋敷の中に、古池が残っているというわけです。「杉風(子)」というのは、杉山杉風(さんぷう)という芭蕉の弟子。この人俗称が、鯉屋籐左衛門といって、魚屋をやっていた頃につかっていた生簀が、かの「古池」だと言っていることになります。となると、古池は「魚屋のいけす」だったわけ?

 いずれにしても、江戸の頃からすでに芭蕉庵は武家屋敷の一部となって、場所が曖昧になっていたようです。

 現在はどうでしょう。深川だとすれば江東区。調べてみるとどうも、「芭蕉庵跡」というのがちゃんとあるようです。
 さらに(かえるクラブにとって)興味深いことには、江東区にある「芭蕉記念館」には、「芭蕉が愛好した石の蛙」があるというではありませんか!これは行って見てくるしかありません。

芭蕉稲荷神社  都営新宿線の森下から降り、万年橋に向かって歩いていると、右手に芭蕉記念館が見えてきます。今回は、とりあえず記念館を素通りし、先に、芭蕉庵跡の石碑がある「芭蕉稲荷神社」に向かいます。
 前に見た「江戸名所図会」とおり、万年橋のたもと、小名木川と隅田川の合流地点に「芭蕉稲荷神社」があります。写真には撮れませんでしたが、赤いのぼりの後には、古池蛙の句と蛙が描かれた板があります。

 狭い境内に入ると、蛙の置き物が目につきます(私だけかもしれません)。芭蕉庵跡の石碑に2体、奥の細道旅立ち300周年記念碑の横に1体、芭蕉生誕350周年記念石碑に1体。あまり珍しいタイプのものではありませんが・・・。
奥の細道旅立ち三百周年記念芭蕉庵跡石碑生誕三五〇周年記念
奥の細道旅立ち 芭蕉庵跡石碑 生誕三五〇周年
奥の細道旅立ち 芭蕉庵跡石碑 芭蕉庵跡石碑 生誕三五〇周年

 なぜ、ここが「芭蕉庵跡」となったのか、なかなかドラマチックな話が稲荷の由来記に載っていました。
由来
深川芭蕉庵旧地の由来

 俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とし「古池や蛙飛びこむ水の音」等の名吟の数々を残し、またここより全国の旅に出て有名な「奥の細道」等の紀行文を著した。
 ところが芭蕉没後、この深川芭蕉庵は武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまった。
 たまたま大正六年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、故飯田源次郎氏等地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府は常盤一丁目を旧跡に指定した。
 昭和二十年戦災のため当所が荒廃し、地元の芭蕉遺蹟保存会が昭和三十年復旧に尽した。
 しかし、当所が狭隘であるので常盤北方の地に旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設した。

 昭和五十六年三月吉日

 芭蕉遺蹟保存会

 これを読む限りだと、芭蕉記念館にあるという「芭蕉が愛好した蛙」というのは、この大正六年の津波の後に発見された石蛙のようですが、うーん。何を根拠に「これが芭蕉庵の蛙」と判断したんだろうか??
 何となく眉唾な話。
 しかも、由来の最後には、「旧跡を移転し江東区において芭蕉記念館を建設」となっているところをみると、今の公式芭蕉庵跡は、さっき通り過ぎてきたあの「芭蕉記念館」ということでしょうか。結構簡単に動かすもんですな。


史跡展望庭園  芭蕉稲荷のすぐそばには、「芭蕉庵史跡展望庭園」というのがあって、大きめの芭蕉像が立っています。周りには、江戸時代の文書に出てきた芭蕉庵の絵が、出典の説明とともにパネルになって飾られており、見晴らしも、小名木川と隅田川の合流地点が一望できて、なかなか壮観。でも蛙度は0。


万年橋  何となく万年橋を渡ってみると、欄干のそばに古池蛙の句が書かれたパネルを見つけました。ついでに歩道を見てみると、なんと歩道に蛙の模様が。さすがは古池蛙の地、江東区。
歩道

 さて、寄り道はこれくらいにして芭蕉が愛した石蛙を見に行こう。



⇒次を読む

[ Top ] [ Reportに戻る ] [ なぜか小林亜星から ] [ 蛙合 ] [ 古池蛙句をもう少し ] [ 芭蕉庵跡を訪ねて ] [ 芭蕉愛好の石蛙 ]