少々脱線が過ぎました。古池蛙に戻りましょう。 古池の芭蕉の句は、貞亨三年(1686年)、西吟という人が編んだ「庵桜」という句集に、登場します。ただし、この時の句は、 古池や蛙飛ンだる水の音 という形になっています。「飛んだる」ではなくて「飛び込む」になった最初の本は、同じ年に出た「蛙合」という句合の本です。 句合というのは、左右に分かれた詠み手が、同じテーマで句を詠み、判者が勝敗を決める、俳句対決なわけですが、そうだとすると、「蛙合」は、蛙の句ばっかり集めた、俳句勝負ものだということになります。「古池や〜」が入っているのはいいとして、残り、誰がどんな句を詠んでいるのか気になるのが、我らかえるクラブのかえるクラブたる存在証明。 今回は、その「蛙合」に載っている句を一覧にしてみました。表の中で「判詞」とあるのは、勝敗を決めた理由を書いたところです。何となく現代語にしてみましたが、分らなかったところも多いので、あまり信用しないでください。 勝敗のところに「持」とあるのは引き分けのことです。 |
順番 | 左 | 勝敗 | 右 | 判 詞 | ||||
第一番 | 芭蕉 | 古池や蛙飛こむ水のおと | ふるいけや かはづとびこむ みずのおと | なし | 仙化 | いたいけに蝦つくばふ浮葉哉 | いたいけに かはづつくばふ うきはかな | なし |
第ニ番 | 素堂 | 雨の蛙声高になるも哀也 | あめのかはづ こはだかになるも あはれなり | 左勝 | 文鱗 | 泥亀と門をならぶる蛙哉 | どろがめと かどをならぶる かはづかな | 左の句、新古今集にある夕暮の蛙だけでなく、雨の中の蛙の声もいい。右の句は、泥のなかで老子的に生活してるすっぽんのとなりにいる蛙だろう。「門を並ぶる」というような、蛙を擬人的に表現した手法は、上手いものだが、左の蛙の声が勝っている。 |
第三番 | 嵐蘭 | きろ/\と我頬守る蝦哉 | きろきろと わがつらまもる かはづかな | 左勝 | 孤屋 | 人あしを聞きしり顔の蛙哉 | ひとあしを ききしりがおの かはづかな | 左の句は、「我頬守る」というところが強く、これに「きろきろと」と置いているところが素晴らしい。「かな」といって終わる句は多いけど、この句に限っては、「かな」といわずして何といったらいいか、というほどぴったりである。まさに「鬼拉一体」の詠みぶり。右の句の、蛙が足音を聞きとがめて、しばし鳴きやむ、というのも面白いけれど、左の方が優れて聞える。 |
第四番 | 翠紅 | 木のもとの氈に敷るゝ蛙哉 | きのもとの せんにしかるる かはづかな | 持 | 濁子 | 妻負て草にかくるゝ蛙哉 | つまおうて くさにかくるる かはづかな | 芝生の露をあてにして蛙が飛んでいるのははかなくていいものなのに、それを毛氈の下に敷いてしまうとは、花見客の不風流がよくわかる。妻を負う蛙は草に隠れて、いったい誰に探されているのかと思うと面白い。引き分け。 |
第五番 | 李下 | 蓑うりが去年より見たる蛙哉 | みのうりが こぞよりみたる かはづかな | 右勝 | 去来 | 一畦はしばし鳴やむ蛙哉 | ひとあぜは しばしなきやむ かはづかな | 左の句は、「去年より見たる水鶏かな」としたいところ。蛙は春。早苗の頃の雨をあてにする蓑売りとした方が巧みであろう。そうすると、夏の季語の「水鶏」がいい。右の句は、田畦をへだてた作意がこまやかである。「閣〃蛙声」などという句にもつながる。「長是群蛙苦相混有時也作不平鳴」という句も力になるので、よって右の勝。 |
第六番 | 友五 | 鈴たえてかはづに休む駅哉 | すずたえて かはづにやすむ むまやかな | 持 | h樹 | 足ありと牛にふまれぬ蛙哉 | あしありと うしにふまれぬ かはづかな | 春の夜の短い間、蛙の声を聞きながら宿場で休む人たちは、蛙の声が気になって、おっくうな寝覚めになるというのは感銘が深い。右は、「牛の子にふまるな庭のかたつぶり角あればとて身をばたのみそ」という寂蓮法師の歌を、蛙に置き換えて優美に表現している。小道にいる蛙の様子を目の当たりにしているよう。引き分け。 |
第七番 | 朱絃 | 僧いづく入相のかはづ亦淋し | そういづく いりあひのかはづ またさびし | 右勝 | 紅林 | ほそ道やいづれの草に入蛙 | ほそみちや いづれのくさに いるかはづ | 左の句の、雨の後、夕暮れ時の鐘を聞いて僧が寺に帰る様子は、さびを感じさせるけれども、「どの草をめざして入っていくのか」と気に止めた右の句をみると、左の句には同感できない。 |
第八番 | 芳重 | 夕影や筑ばに雲をよぶ蛙 | ゆうかげや つくばにくもを よぶかはづ | 右勝 | 扇雪 | 曙の念仏はじむるかはづ哉 | あけぼのの ねぶつはじむる かはづかな | 左は、筑波山にかけて雨乞いをするように蛙が鳴く夕べということで、雄大な雰囲気がある。右は、淋しい思いを我慢して、草庵の中で念仏をする蛙。念仏するのは殊勝ということで右の勝。 |
第九番 | 琴風 | 夕月夜畦に身を干す蝦哉 | ゆうづきよ あぜにみをほす かはづかな | 左勝 | 水友 | 飛かはづ猫や追行小野ゝ奥 | とぶかはづ ねこやおひゆく おののおく | 「身を干す蛙」というのは夕月夜によく合っている。右の句の蛙は、よく連歌などで詠みふるされた感がある。小野の奥と取り合わせたが、これまた和歌に何度も詠まれた名所。こういう静かで淋しい場所をもってくると、句がたよりない感じがする。単に句の工夫の仕方の強弱だけでみれば、左が勝ちということになろう。 |
第十番 | 徒南 | あまだれの音も煩らふ蛙哉 | あまだれの おともわづらふ かはづかな | 右勝 | 枳風 | 哀にも蝌つたふ筧かな | あはれにも かへるごつたふ かけひかな | 左の句は、「半檐疎雨作愁媒鳴蛙似与幽人語」という増補国華集にある歌なんかもあって、この歌の力になりそうだが、この句の境地はせまく、表現が不十分である。「かへるご」五文字からの言い回しは、西行の詠み振りにならったものだろうか.、右の句の方が姿がすぐれているので、右の勝。 |
第十一番 | 全峰 | 飛かはづ鷺をうらやむ心哉 | とぶかはづ さぎをうらやむ こころかな | 右勝 | 流水 | 藻がくれに浮世を覗く蛙哉 | もがくれに うきよをのぞく かはづかな | 左の句は蛙と鷺が問答しているが、右の藻がくれの蛙は高尚・遠大な志をもって他と問答することもなく、物事についての考えがよくよく勝っているので、右の勝。 |
第十二番 | 嵐雪 | よしなしやさでの芥とゆく蛙 | よしなしや さでのあくたと ゆくかはづ | 持 | 破笠 | 竹の奥蛙やしなふよしありや | たけのおく かはづやしなふ よしありや | 左右とも、句の中の「よしありや、よしなしや」ではないが、特にこの句を詠んだ理由があるのやら、ないのやら。引き分け。 |
第十三番 | 北鯤 | ゆら/\と、蛙ゆらるゝ柳哉 | ゆらゆらと かはづゆらるる やなぎかな | 持 | コ斎 | 手をかけて柳にのぼる蛙哉 | てをかけて やなぎにのぼる かはづかな | 右の蛙の、遥かな木末にのぞみ、のぼろうとしている様子はけなげで心を動かされる。左の蛙は木に登って落ちそうな様子、玉篠の霰、萩のうえの露ともたとえられる。左右の句を強いて区別しようとすれば、好みにしたがって勝敗を決められなくもないが、ここは左右の優劣を決めるのは止めておく。引き分け。 |
第十四番 | ちり | 手をひろげ水に浮ねの蛙哉 | てをひろげ みずにうきねの かはづかな | 持 | 山店 | 露もなき昼の蓬に鳴かはづ | つゆもなき ひるのよもぎに なくかはづ | 「石に口をそそぎ、流れに枕する」と言い間違えた孫楚の故事を正して、本当に流れに枕している蛙ということか。右の句も風情に乏しく、左右ともに勝負にならない。引き分け。 |
第十五番 | 橘襄 | 蓑捨し雫にやどる蛙哉 | みのすてし しづくにやどる かはづかな | 右勝 | 蕉雫 | 若芦にかはづ折ふす流哉 | わかあしに かはづをりふす ながれかな | 左の句、いかにもそのとおり、という感じの句である。「雫ほす蓑に宿かる」とすると大げさな表現になってしまうだろう。ただ、「捨つる」という表現は、句の意味を弱くしてしまっている。右の句、言葉づかいがやさしい。、右が勝か。 |
第十六番 | 挙白 | 這出て草に背をする蛙哉 | はひいでて くさにせをする かはづかな | 右勝 | かしく | 萍に我子とあそぶ蛙哉 | うきくさに わがことあそぶ かはづかな | 草を背にする蛙、という情景が見られないわけではないが、子供と遊ぶ父母の蛙は、ほかの動物と同様の親子の情を感じさせる。風流ということの外に、親子の真情がみえるということで、右を勝とする。 |
第十七番 | 宗派 | ちる花をかつぎ上たる蛙哉 | ちるはなを かつぎあげたる かはづかな | 持 | 嵐竹 | 朝草や馬につけたる蛙哉 | あさぐさや うまにつけたる かはづかな | 散る花びらを追っている蛙は、閑居しているひとに理想的な見物であろうし、草といっしょに馬に積まれてしまった蛙の哀しい鳴き声も捨てがたく、引き分け。 |
第十八番 | 杉風 | 山井や墨のたもとに汲蛙 | やまのゐや すみのたもとに くむかはづ | 持 | 蚊足 | 尾は落てまだ鳴あへぬ蛙哉 | おはおちて まだなきあへぬ かはづかな | 左の句は、幽玄で情趣が深い。言外に余情があふれている。右の句も、おたまじゃくしの尾がおちて、やや大きくなってきた様子は、春にとってもよく似合う。ということで引き分け。 |
第十九番 | 卜宅 | 堀を出て人待くらす蛙哉 | ほりをでて ひとまちくらす かはづかな | 左勝 | 峡水 | 釣得てもおもしろからぬ蛙哉 | つりえても おもしろからぬ かはづかな | この勝負は、審判も記録係も、春の遅い夕暮れにうんざりして、役目を忘れてしまったために、判詞がよくわからない。とにかく、左が勝ち。 |
第廿番 | そら | うき時は蟇の遠音も雨夜哉 | うきときは ひきのとほねも あまよかな | なし | 其角 | こゝかしこ蛙鳴江の星の数 | ここかしこ かはづなくえの ほしのかず | なし |
追加 | 不卜 | 継橋の案内顔也飛蛙 | つぎはしの あないかほなり とぶかはづ |
どうでした?第十九番の判詞が「どうしてそう決めたか忘れてしまったけど、左の勝」としているところが大らかで好みです。でも、俳句バトルというのも、審判の判断基準がよくわからないフィギアスケートの自由演技の採点のようで、ピンとこないなあ、というのが正直なところ。知識不足なんでしょうな。 とにかく「蛙哉(かはづかな)」で終わる句の多いこと多いこと。20番×2+追加1=41の蛙の句のうち、半分以上の22句が「かはづかな」。確かに落ち着きはよさそうですが、何かもうちょっと変化があっても・・・。 [ ⇒次を読む ] |