もと来た道を後戻りして「芭蕉記念館」へ。記念館には庭園があって、古池蛙の句碑もあります。その隣には「芭蕉庵を模した」(とパンフレットには書いてある)小さなほこらもありますが、全体的に中途半端という雰囲気。
ざっと回って記念館の中に入ります。
展示を見るには観覧料を払わなくてはいけません。100円。
さて、展示室のある2階に上がると、部屋の一番奥のひときわ目立つガラスケースの中に、件の石蛙は鎮座していました。
この「石蛙」ですが、かなり欠け落ちていてさすが出土品という雰囲気。紫の座布団に乗せられた姿はそれなりに神々しくみえなくもありません。
説明文を書き写してきました。
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芭蕉遺愛の石の蛙(伝)
芭蕉が深川芭蕉庵において愛好していたと伝えられる石の蛙。
芭蕉没後深川芭蕉庵は武家屋敷となり、その場所は明確でない。大正六年(1917)の大津波のとき、この石の蛙が発見され、その場所が芭蕉庵の旧跡として大正十年(一九二一)東京府から指定をうけた。現在、当館の場所が都の旧跡として指定されている。
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「芭蕉稲荷」で読んだ説明とあまり変わりません。どの辺がどの芭蕉関連資料と結びついて、「芭蕉遺愛の」という決めがなされたのか、そこのところが今ひとつはっきりしないなあ。まあ、(伝)とすることで、説明を回避しているのかもしれませんが。
後で、「江東区史」を開いてみたところ、芭蕉庵跡に関する記述は概ね稲荷の由来記と同じで、ただ、「発見された」ではなく、「流れついた」となっているところが、石蛙の信憑性をますます下げているような・・・。
大正6年の津波は、同じく「江東区史」で見たところでは、かなり大規模なものだったようで、9月下旬の長雨に、台風にともなう記録的な豪雨で河川が増水していた所に、10月1日未明、津波が発生し、当時の東京府が纏めた被害状況によれば、死者555人、行方不明者31人、全壊家屋3,607戸、半壊家屋5,261戸、床上浸水134,945戸、床下浸水51,859戸というすざましさでした。
この津波の記述の中に、芭蕉遺愛の石蛙発見について述べられた部分はありません。
でも、この石蛙から「芭蕉愛好の」という形容詞を除くと、「小汚い壊れかけの石像」というほかなさそうな。信じるものは救われる。蛙が飛びこんで芭蕉が句を吟じた池のそばに置いてあった石蛙が、今自分の眼前にあるんだ、と信じてみれば、うん、見えてきた見えてきた。古池に石蛙を投げ落として、大きな水音とともに跳ね返る水しぶきに顔をしかめながら「古池や〜」と詠む芭蕉の姿。(間違ってますか。そうですか。)
館内は撮影禁止だったので、石蛙のスケッチを載せておきます。古池蛙の長いお話、この絵でお開き。ここまで読んで下さりありがとうざいました。
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芭蕉遺愛の石蛙(伝)
古池のぽちゃんが末世迄ひヾき 柳多留
少なくとも私の人生の数日間には確かに響きましたな。お後がよろしいようで。
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