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今も残る大蝦蟇伝説 − 麻布がま池 −

 ※ 引用文中、文字フォント、文字色等を変更して強調している部分は、当サイトで付したもので、原文とは関係ありません。

■ 大蝦蟇の伝説 ■

 大蝦蟇はやはり、あり得ないものなのでしょうか?いやいや、日本には大蝦蟇の伝説が沢山あります。

 例えば・・・

【絵本百物語−桃山人夜話】天保十二年(1841)

周防の大蝦蟇  竹原春泉斎が画を描き、桃山人が文を書いたこの作品。妖怪の画がいっぱいです。
 その9つ目。周防の大蟆
 岩国山の奥に八尺ばかりの蟆が住み、日中に虚空を向いて口を開ければ虹のような気を吐く。この気に触れた鳥類や虫などは、みな蟆の口に入る。夏は蛇を喰らう。窮鼠が猫を噛むのに似ている。唐土は燕然山の苔渓に住む蟆は丈余(十尺余)にして人を喰らうという。およそ蟆のうち八尺に及ぶものは、多くは害をなすと記されている。また小さくても立って歩む蛙は必ず害をなすものだと『兎床談』に記してある。

(多田克己編 「竹原春泉 絵本百物語 −−桃山人夜話−−」1997.6.24 国書刊行会)
 一尺が30センチちょっとですから、八尺といえば2メートル半あることになります。中国には3メートル以上のものも!
 ただ、八尺に及ぶものは害をなす、といわれても、普通いませんからねえ。2メートル超える蛙を見ればいやでも注意しますから。立って歩く蛙も見あたらないし。


【北窓雪譜】天保六年

 越後塩沢の商人、鈴木牧之がその地方の話題を集めて記した本。
 この初編巻之下に、「泊り山の大猫」という話があります。足跡がお盆ほどあるという大猫の話の後、大蝦蟇の話が出てきます。
 我が友信州の人かたりしは、同じ所の人千曲川へ夏の夜釣に行しに、人の三人もをるべきほどのをりよき岩水より半いでたるあり、よき釣場なりとてこれにのぼりてつりをたれてゐたれしに、しばしありてその岩に手毬ほどに光るもの二ツ双びていできたり、こはいかにとおもふうちに、月の雲間をいでたるによくみれば岩にはあらで大なる蝦蟇にぞありける。ひかりしものは目なりけり。此人いきたる心地もなく何もうちすてゝ逃げざりしとかたりぬ。

(岡田武松 岩波文庫「北越雪譜」1936.1.10)
 ヒキガエルの肌はたしかに岩っぽいですね。目玉が手毬ほど、というのでは体長はどれくらいでしょう。

【谷の響】

 平尾魯仙(文化5〜明治13(1808〜1880))が、民間の奇事異聞を集めた「谷の響」。大きな蝦蟇の話が出てきます。

十四 蟇の妖魅

 成田某と言へる人、炭蔵の奉行たりし時、三ツ目内の者炭上納に來りしが、時から閑暇にてありければ何か希らしき話なかりしやと問ぬるに、かの者の曰、さればいと/\奇怪のものに遇へるなり。そは今年の八月、同侶三人にて炭を焚て居たりしが、一日の下暮ごろに年甲二十二三とも見ゆる美しき尼來りて、吾は弘前某といふ尼にて大鰐に湯治せるが、今日しも花を採らん爲に山に入り路を失ひてはからず暮に及べるなり。女の身のかゝる山中を一個往くこと惶しければ、今宵一夜を明させ玉へと言ふに、三個のものみな二十三四の若者なれば、互に顔見合せつゝ子細なく了諾して、夕飯などしたゝめさせ道路の勞れを慰めつるが、やがて寢ぬる時にもなれば豫て期したることゆゑ、各々替々迫りしにいと心よく諾ひて交接をなしたりけり。斯て夜も明け旭も昇りぬれば尼起出て告辭しつるに、握飯を持たせ半途に送り、往くべき先の路を委細に喩示してやりたるが、奈何しけんその黄昏に又來りていと本意なげに言ひけるは、又しても道を踏外し里へ出べき便宜あらで、詮術なくもと來りし道を來つるなり。千乞今宵も宿を賜はれとあるに、皆々好き事にして假屋に留め、その夜も淫事したりけり。
 さるに、其の翌る日もかくの如く已に四度に及びぬるに、一人某といふ者、訝しき事のあれば必ず狐狸の属なるべしとて二人の者にも語りたるに、奈何にも怪しき處ありとて、鉞鉈など研磨たてゝ彼が來るを待たりしに、果してその薄暮にも來りければ、種々淫蕩話をいひかかるに、かれもなれ熟しく笑ひ噪て居たりしが、かねて謀りし事なれば二個は外して外へ出たるあとに、淫犯る化粧にもてなして、鉈もて肩先より胸のあたりへかけて二撃三撃斬つけしに、ぎゃっと叫んでそのまゝ奔走出けるゆゑ、急に二人を呼よせて血の跡を所縁に追い往くに、亂柴蕃殖にかゝりて見分がたく、日もま且没て爲方なければ其夜はともに休息けるが、明る旦とく起出で三人ともに刄もの引提げ血を索めて探り往くに、二里許にして幽き溪に下りたるに樹木繁茂ていと陰欝く、蔦蔓延りて踏處もなきに杳にもののうなる音聞えしかば、これぞ決てかの妖魅ならんと、三人もろとも聲を望に窺ひ看れば、絶岸の傍に径二尺ばかりの洞穴ありて、其中に鮮血を曳いてありけるに、然てこそとてすかし看れば、四五尺の先に物ありて両眼鏡の如くなるに、さすが洞穴へ入るべきものもなく鎌に縄を付て投かけて引寄るに、洞穴崩るゝばかりに吼えうなりて搖ぎ出でたるものを視るに、三尺ばかりの大蝦蟇にていと怖ろしきものなるが、重傷のために弱れるにや、猛るもやらで有けるを、みな/\立倚り截り殺し留めを刺して棄けるなり。山に起臥すれば大きなる蟇を時々見ることあれど、かゝる巨物は未だ聞かざることなりと語りしを、この成田が親属中村某の聞つけて語りしなり。

(日本庶民生活資料集成 第十六巻から)
 ちょっと長すぎましたね。道に迷った、と訪ねてくる尼を泊めて、大人の関係を結んで、次の日道を教えて送り出すと、また、次の日も道に迷った、とやって来る。そんな事が何日も続くので、狐狸の類に違いない、ということで切りつけ、逃げたところを、血の跡を辿っていくと、洞窟の中に逃げ込んだらしいので、鎌に縄を付けて引寄せると、三尺ばかりの蝦蟇が出てきた、という話。
 1メートルぐらい。ほどほどの大きさですね。でも女に化けて怪しいことをする術を心得ているというわけで。


 同じ「谷の響」にもう一つありました。

十一 大蝦蟇 怪獣

 金木村に彌六といへるものありけり。禀質豪毅なるが、兼ねて修験に由りて九字の印呪など學び得て、寰内に怕きものなしと誇れるとぞ。何の頃にか有けん、大澤平の溜池(周囲二里余)なる竇樋破れて堤防大ひに決壊れし事ありけるに、土の人ども言ふ、この池の主の出る由縁なるべしとあるに彌六が曰、池の統司ならんには池を護りてあるべきに、随意に堤防を壓壊り、吾曹に不意き労煩を被負ることいと憎き奴なり。活しておくべきものに非ず。いで/゛\其統司を捕獲んとて、腰に緒索を縲着け引かば曳けよと言ふて、樋の壊門の漲水賁激中心に躍没り幾乎水底に在けるが、いと巨大きなる蝦蟇を捉へて浮み出たり。その蝦蟇の大さ居丈二尺に餘りて、両の眼金色を帯びてごろごろと咽喉を鳴らし、搖動もやらず座したるはしかすがにこの池の主とも想像れて、看もの舌を巻しとなり。さるに彌六は此を殺さんとて鉞をもて立向ひたるに、衆々後の祟害あらんといふておし歇めて、舊の池に放下しとなり。

(日本庶民生活資料集成 第十六巻から)
 蝦蟇より彌六の方が怖いです。堤防が決壊したのを、周りの人が池の主がやっていると聞いて、主なら池を守って当然なのに好き勝手なことしやがって、と池に飛びこんで、主を捕まえてしまったんだから。挙句のはて、生かしちゃおけない、とまさかりで殺そうとするのを、周りの人が祟りがあったら困るから、となだめたぐらい。
 蛙のサイズは1メートル足らず。なんか居てもおかしくなさそうなサイズになってきました。

【信濃奇談】文政12年?

 堀内元鎧が記したもの。
 上巻に、蝦蟇の話が出ています。
 また荒井といふ里に、大きなる蝦蟇の目四つあるありて、夕くれことに大なる口をあきておれは、蚊蜂なとようのものいつくともなく飛来たりて、口に入りけるよし見えたり。

(日本庶民生活資料集成 第十六巻から)
サイズが書いてありませんが、目が四つ!

【藤岡屋日記】天保11年

 秋葉原の古本屋で、「御記録本屋」の異名をもつ藤岡屋由蔵が記した江戸の姿。この中にも大蝦蟇が・・・
四月廿五日
 赤坂井戸の怪
  赤坂、甲良屋敷、進物番
  高五百石 秋田源次郎
 右秋田屋敷内地面ニ、年来申伝へニて水汲ぬ井戸有けるニ、源次郎事頻りニ此井戸の水遣ひ度思ひ、汲見たる処ニ至極宜敷水故、井戸替致し候上ニ而遣ひ水ニ致さんとて、家来相手ニ井戸替致し候処、元々地処至而低く水地ニて、纔二側か三側故、無程替干けるに、底より大サ二三才の子程成大蛙一疋、外ニ猫程之蛙三疋出けるニ、此様成物住居候ニ付、是迄不用之井戸なりとて、用人と被談被致候事ニ、何れ打殺ニしかずとて、大蛙の四疋打殺しけるに、其夜用人ハ舌を喰切即死致し、源次郎事も翌朝夜着引かつぎ打臥居られしニ、まくり見るニ枕元の脇差にて咽ぶへを突通し、うつ向ニ即死致しける事、珍し敷おそろしき事ならず哉。

(鈴木棠三 小池章太郎編「近世庶民生活資料 藤岡屋日記 第二巻」1988.3.31)
 蝦蟇の祟り。怖いですね。秋田源次郎という侍が、長年使ってはいけないとされていた井戸を使おうとしたら、中から大きな蛙が四匹出てきたので、これを家来に打殺させたところ、打殺した家来は舌を噛んで死に、源次郎も脇差で咽喉を貫いて即死とのこと。
 志賀洋子「日本怪奇幻想紀行 五之巻 妖怪/夜行巡り 三章 江戸の坂に妖怪を見る」(2001年1月10日 角川書店)によれば、当時の赤坂の切絵図(地域別に分割された小型の江戸地図)には、秋田源次郎という者の屋敷も甲良屋敷も見あたらないとのこと。でも牛込の切絵図には「甲良屋敷」があるそうです・・・。

【忠五郎の話】1902年刊

 これは、伝説といえるかどうかちょっと微妙です。小泉八雲の短編小説なので。でも、八雲が書いたものは、基本的に日本や中国の説話を下敷きにしているので、こういった話があったことは間違いないかと。
【粗筋】  江戸小石川の旗本、鈴木家の用人に忠五郎という足軽が、毎夜屋敷から忍び出て、夜明け前に帰ることを繰り返していた。最初は周りも黙認していたが、そのうち段々と忠五郎の顔色が悪くなっていくのを見かねた同役が、わけを問いただしたところ、淵の中の屋敷に住んでいる不思議な女と会っているのだと白状した。その後忠五郎は寝込んでしまい、医者が呼ばれたが、医者が驚いたことには、忠五郎の身体には血がほとんどなかった。忠五郎はそのまま死んでしまった。
 医者が語ったところでは、忠五郎のような症状で死んだものは初めてではなく、その淵の付近で何件か発生しているとのこと。女の正体は、昔からその淵に住む、若い男の血が好きな大きい蝦蟇だということであった。
 まさに怪談。

【日本伝説集】大正二年

 高木敏雄という人が、伝説を募集して、分類した伝説研究書。蛙の伝説は、「水海神話的伝説」として分類されています。
ホ 蛙
 京都の比叡山の話。
 昔、或男が山に登つて、附近の景色に見惚れ、岩の上に臥転んで、煙草を吹かしゐると、大地震が始まつた。吃驚して、岩を飛下りて、よく気をつけて見ると、地震でも何でもない。岩と思つたのは、大きい蛙で、煙草の火で背を焼かれて、動きだしたのだつた。それから其男は病気に成って、二三日の中に死んだ。昔から、叡山の主は大蛙だ、と云つてあるから、その蛙に遇つたのだらう、といふことだ。(高木徹君)

(高木敏雄「日本伝説集」大正二年 郷土研究社)
 文章の最後の「高木徹君」というのは、この話を投稿してくれた人のことのようです。
 病気は蛙の祟りでしょうか?

さて、この種の伝説は、種が尽きませんが、最後に中国の伝説をば一つご紹介。

【老学庵筆記】1200年前後

 南宋の詩人陸游が記した随筆。楊[晉戈](←[ ]の中は一字と思ってください。使えない字だったので。以下同じ。)という、宋の皇帝徽宗のお気に入りだった宦官のお話です。
楊[晉戈]は蝦蟇か

 宦官の楊[晉戈]は堂の裏手に大きな池を作り、そのまわりを廻廊でかこい、厳重に鍵がかかるようにしていた。入浴する時には浴具や澡豆のたぐいを池のそばにおき、すっかり人払いをしてから、池の中に跳びこんで泳ぎまわり、大抵かなりの時間がたってから出てくる。人は誰ものぞき見ることができなかったが、ただ池で水浴するのが好きなのだろうくらいに思っていた。
 ところがある日、[晉戈]がひとりで堂の中に寝ているとき、盗人がその中に忍びこんで来て、ふと寝床を見ると、なんと一匹の蝦蟇が、それもその寝床いっぱいくらいの大きな奴が、二つの目を金のようにらんらんと光らして、人を射るように睨んでいた。これにはさすがの盗人も度胆を抜かれてぶっ倒れたら、その蝦蟇ははやまた人間の姿に変わり、それが楊[晉戈]であった。[晉戈]はおきあがって剣を握り、
「きさまは何者だ」
 と聞いた。盗人がありていに白状すると、[晉戈]は、銀の香毬を一つ盗人に与えて、
「かわいそうにきさまも貧乏に迫られてしたことだろうから、これをきさまにやる。しかし決して今見たことを他言するではないぞ」
 といった。盗人は恐れ入って受けとらず、お辞儀をして、逃げ出した。その後、ほかの事で開封府の獄に繋がれ、自分で右のような話をした。

(松枝茂夫訳「中国古典文学大系 第56巻 記録文学集」1969.3.10)
 人に化ける大蝦蟇か、大蝦蟇に化ける人か。

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