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今も残る大蝦蟇伝説 − 麻布がま池 −

 ※ 引用文中、文字フォント、文字色等を変更して強調している部分は、当サイトで付したもので、原文とは関係ありません。

■ がま池の歴史 ■

 山崎主税之助屋敷にあった「がま池」は、その後どうなっていったのでしょうか。


 明治維新後、山崎家の屋敷は、第二次伊藤博文内閣のもと、大蔵大臣になった諏訪藩士、子爵渡辺國武の邸になりました。
 前のページでも紹介した、「新撰東京名所図会」には、明治時代のがま池の様子が絵と文で記されています。
新撰東京名所図会の蟇池
俯して窺へば柳條攅元、固く池面を封じて、風物凄其、陰寒の氣人を襲ふて、境地の寂寞に冥契するものあらむとす。

(前掲「新撰東京名所図会」)
 文章は難しくて、様子はよくわかりませんが、何やら深遠な池のようです。絵を見ると、かなり広々とした、大きな池であったことがうかがえます。

 この、渡辺邸時代の「がま池」の様子を伝えるもう一つの文章があります。これも、既にご紹介した「幕末・明治 女百話」。
 麻布本村町の渡辺国武−−大蔵大臣までなすったその渡辺さんの御屋敷は、御門から覗きますとズット低く、御庭の底が、大きな御池となって、柳の大きな樹が、池の面に垂れて、船などが繋いである風情は、好い御屋敷で、古い御池だと、いつも思い/\したものですが、アノ御池が、俗に『蟇池』といって、蟇の主が棲んでいたと申します。

(篠田鉱造・前掲)
 邸自体がかなり窪地にあったようですね。門から見下ろすような場所に邸があって、その窪地の一番低い所が大きな池になっていたと。大きな柳の木があったということですが、柳と蛙の取り合わせは、小野道風の故事っぽくて、まさに「がま池」にぴったりです。

 この、柳と蛙の取り合わせを、見た人がいます。それも、現代
 その人こそ、カメリア・マキという占い師(?)。なんだか、“カメリヤダイヤモンド”と“銀座じゅわいおくちゅーるまき”が合わさった、派手なお名前ですが、この人が、「がま池」について霊視しています。
 由緒あり気な大名屋敷の一角が目の前に広がる。木立ちに囲まれた「がま池」は、現在のものよりもっと大きく、魚や鳥の姿もちらほら。この場所も震災や空襲にあっている様子だが、周辺の木々は速やかに命を吹き返した。火災を防ぐというがまの伝説が生まれたのは、そのあたりからきているのだろうか。
 霊的ポイントは、池のほとりにある大きな柳の樹付近。緑色の精霊、緑色の蛙の残像。この樹には、かつて精霊の住まいだった霊気がかすかに残っている。
(中略)  東京の超高級住宅街の真ん中に、21世紀の現在までこれだけの緑と精霊の残像を残した池が残っていたことは、それだけでも奇跡に近い。時代が変わって、この緑地帯の開発が避けられないことになっても、池の辺り、柳の樹の傍に近隣の神様を歓請しておけば、この地域の精霊はすべてそこに集まったはず。伝説の名を借りたパワースポットを保存するには、『聖地』として史跡に残すのが一番良い方法だったと思える。

(カメリア・マキ「不可思議スポット巡歴譚」散歩の達人2001年9月号)
 緑色の蛙の精霊ね・・・。あんまり蝦蟇っぽくないですね。のっけから「大名屋敷」だしね。旗本の屋敷だってば。
 関係ありませんが、このカメリヤ・“ダイヤモンド”・マキさんの経歴、自分の知識の範囲外のことばかりで、非常に興味深いものでした。
'70年頃より占術の道に入る。水晶球透視術、タロットカードなどジプシー占いのほか、風水学、西洋占星学など、占い全般に精通。アメリカで魔女学をマスター。全米魔女協会認定の称号を持つ公認の「魔女」。
 前半はまあ良いんですけどね。占いの勉強というのもありかな、とは思います。「アメリカで魔女学をマスター」。魔女学。どこで教えてるんでしょうか。もしかして、「おじゃ魔女どれみ(関係ないけど「魔女ガエル」も出てくる。)」みたいなやつでしょうか?全米魔女協会??公認???何か試験はあるんでしょうか。公認の条件なんか結構気になります。全米魔女協会公認の魔女って、世の中にどれ位いるもんなんでしょう?そもそも全米魔女協会って何?

 脱線脱線。

 がま池はその後もずっと渡辺家の所有地内にありました。詳細はよくわかりませんが、池は徐々に埋め立てられ、宅地化して分譲されていったようです。
 昭和30年代ぐらいまでは、「この池で遊んだ」という思い出を語る麻布出身者も多く、子供の遊び場になっていたことが窺えます。
 昭和30年代のがま池を描写した本に、有名な映画評論家、山口瞳の息子さんで、エッセイストの山口正介が、小説現代に連載した「麻布新堀竹谷町」という自伝的小説があります。
 話の中に、「六月十六日。テレビ映画『スーパーマン』で主役を演じていた俳優のジョージ・リーブスが自殺した。」という一文があるので、1959年、昭和34年であることが分かります。かなり長くなりますが、がま池を描写した箇所を引用しましょう。
 氷川神社を通りこしてしばらく歩き、左に曲がると今度は下り坂になっている。まがり角に白いペンキを塗った細い案内標識が立っていて、横木にアダムスとかジョーンズなどと片仮名と英語で書かれている。その他の英語だけの表示は読めるはずもなかったが、それは彼らにとって、この辺りが何か特別な場所であることをしめしていた。
 坂を下るとすぐに突き当たりになり、道は左に曲がっている。道に沿って朽ちた板塀があり、こんもりとした樹木がその上に枝をのばしていた。

(中略)

 慎重を期して順番に秘密の抜け穴をくぐり、生い茂る潅木やからみつく蔓をかき分けて進むと、踏み固められた狭い道はさらに下っている。まわりの建物の様子からすると、この先は大きな窪地になっているようだった。
 むんむんする草いきれに圧倒され、泥がぬかるんでつるつる滑る坂道に足をとられながら、両手で背よりも高い草を払いのける。
 突然、視界が開け、その特別な場所が全貌をあらわす。
 緑の濃いよく繁茂した樹木に囲まれた原っぱの中央に、学校のプールの何倍もある池がたっぷりとした水をたたえていた。
 頭上には、そこだけ木々が枝をのばせない、明るい空がぽっかりと丸く広がっていた。霞町から三田に抜ける車の音も、麻布十番から上ってくる車の音も、ここまでは届かない。
 辺りはシーンとして静まりかえり、対岸にいる子供たちの哄笑だけがこだましている。
 池の中央には小さな島があり、その近くに何世代も前の少年たちが苦労して建造した、木製の筏が半分沈んだまま、放置されている。その進水式はどんなにか華やかだったことだろう。
 “がま池”。噂には聞いていたが、周助がここに来るのは、今日がはじめてだ。
 近所の子供たちのあいだでは、すでに伝説となっている、幻の遊び場だった。
 ある者は、もうがま池はないのだと言った。またある少年は入口が閉ざされているだけだと解説した。べつの子供は入口はあるのだが、そこへたどり着けないのだと証言する。一度、遊びにいったことはある、しかし、この間もう一度行こうとしたら、どうしても場所が分からなかった。いつも遊んでいるから、絶対にある、と意見はまちまちだった。
 周助たちがこのとき知るよしもなかったが、“がま池”は江戸時代から今にいたるまで、確かにそこに存在している。
 しかし、周囲はことごとく私有地に囲まれ、改築、増築のたびに敷地を狭められて、往時の面影をとどめないほどやせ細っていた。
 歴代の子供たちが造る秘密の通路は所有者に発見されるたび、その都度、固く閉ざされ、新築の建造物があたりの景観を一変させる。
 こうして少年たちは成長とともにその存在を忘れ、新しい冒険者たちは改めて“がま池”を発見しなければならなくなる。
 周助にしたところで、“がま池”のことをはじめて聞いたのは、同じ小学校を卒業している叔父からだった。「子供のころはよく遊びにいったけれども、まさか今はもうないだろう」
 周助がこの日、迷わずに真っ直ぐ行けたのは、ツトムが兄さんに最近、連れてきてもらっていたからだった。
 池の水は汚れて白濁していた。うす青色のしじみちょうが一匹、とんでいる。羽虫が飛び交い、かすかに腐敗臭がただよっている。草むらから小さなバッタがヒスイ色のしずくとなって飛び出す。

(山口正介「麻布新堀竹谷町」1994.3.20 講談社)
 当時からもう、私有地に囲まれて、「そんな池、まだあったのか」というような伝説の場所になっていたようです。でも、まだ子供に開放されていて(開放というか、隙間を見つけて入り込める所になっていて)、遊び場所になっていたんですね。

 この状況が大きく変るのは昭和40年代。当時の渡辺家は、國武の孫の渡辺慧の代になっていました。渡辺慧という人は、理論物理学者、科学哲学者、認知心理学者と多彩に活躍していた方で、「醜い家鴨の子の定理」などでも有名。昭和40年当時はハワイ大学の講師をしていて日本にはいませんでした。
 昭和46年、麻布の一等地を遊ばせておいてもなんだと思ったのかどうなのか、この地に急遽3階建てのマンションが建設されることになりました。しかも、建物の一部は、がま池の中に柱を立て、池の上にせり出すようになる構造。池を囲うようにコンクリートの塀が張り巡らされ、工事が始まったのにびっくりしたのが、近所に住んでいた外国人たちで、「景観が損なわれる」などと、反対運動を展開、新聞記事になりました。
1971.9.9 朝日新聞 一つ目は昭和46年(1971年)9月9日、朝日新聞夕刊に「ガマ池ノ美観コワシマス〜マンション反対〜外人が署名の音頭とり」という記事が掲載されています。
 東京・麻布の住宅地の一角に、ひっそりとスイレンを浮かべた小さな池がある。伝説から「ガマ池」と呼ばれ、かつてはうっそうとした森に囲まれていた古い麻布の面影をわずかにとどめるところ。この池のはしに、地主がマンション建設を計画したことから、周囲に住む外人たちが「せっかくの景観がそこなわれ、魚や鳥のすみかがこわされるのは惜しい」と、建設中止の署名活動に乗りだした。日本人の側にも、運動に参加する人がふえて、運動は大きく広がりそう。火付役となったアメリカ人G・M・フリント夫妻らは、九日午後、環境庁で大石長官に会い、実情を訴えて国の協力を要請することになった。
 この記事では、池の持主が「ドロテア・W・ダウエル」となっていますが、これは、渡辺慧の奥さんです。
 区、都、国等に陳情した結果が、どんな風だったかは、次の記事で大体わかります。

1972.3.4 毎日新聞  昭和47年(1972年)3月4日の毎日新聞、「問いかける群像」という連載記事の14回目に「ガマ池が消える 怒った、立った外人が・・・」という題で、反対運動の記事が載っています。
 がま池の様子について書かれた部分を引用します。
 東京の住宅街にも、こんな美しい所が残されていたのか、とびっくりするような場所がある。港区元麻布にある「ガマ池」一帯。湧水池は一面が睡蓮でおおわれ、緑の茂みに囲まれる。さまざまな渡り鳥がいこい、小鳥が一年中、飛びかい、ウグイスの鳴声が耳をくすぐる。子供たちは、ジャングル遊びに興じ、魚釣りやザリガニとりに時を忘れる。
 ベタボメですね。で、この記事のいいところは、陳情を受けた、行政側のコメントが載っているところにあります。
 例えば、

港区長「できれば残しておきたいのだが、区には買い上げるだけの財源がない。都や国が買ってくれればねー
東京都「ガマ池は面積(全体で1200平方メートル)が小さすぎて、都立公園向きではない。区が将来公園にすると約束するなら先行取得しておいてもいいのだが、区にはその気もないようだ。あのへんには有栖川宮公園や児童遊園があり、東京一緑の濃いところ。優先度からいってもまずムリだねー」
環境庁「所管外でどうしようもない。都で善処してほしいものです。」

 どうにもならなそうでしょ。結局3800人集めた署名も役に立つことはなく、マンションは建設され、がま池は完全にマンションの敷地内に囲い込まれ、周辺から覗くことはまったくできない池になってしまいました。

 事実、こうなってしまってからは、「がま池はもうなくなった」と思い込んだ人も結構いました。
 例えば、東京にある池の由来等を紹介して集めた「東京の池」という本は、
 池は私が知る限り昭和四十年代になってもあった。かなりくたびれた感じで水景としては衰えてはいたが間違いなくあった。おそらくその数年後に廃れたのだろう。四十年代の半ばには消滅していた。

(小沢信男 冨田均「東京の池」1989.12.20 作品社)

となっています。この本を書いた人は、ちょうど、マンション建設頃を境に、がま池が見つからなくなってしまったため、「なくなった」と思ったのでしょう。

 マンションが建った、40年代末以降、がま池に関してあまり大きな動きはなかったと思われます。昭和50年に、港区が、区文化財の標示板を立てているぐらいでしょうか。

1991.10.30 朝日新聞  それから15年以上たって、時代は平成になります。平成3年(1991年)10月30日の朝日新聞東京版に、「がま池アップアップ 江戸の名残の湧水地、15年で半減 樹林地消え雨水も不足」という記事が出ています。
 がま池はもともと、湧水によって水量を保つ池で、昭和51年(1976年)に、港区の防災課が行った、井戸湧水調査の時点では、まだ湧水が確認されていました。
 しかし、この記事によれば、平成3年に実施した港区の「みどりの実態調査」の結果、がま池の湧水はすでに枯れていることが明らかになったとのこと。

1991.11.10 読売新聞  そして、なぜかタイミングを合わせたように、この平成3年のがま池の様子を伝える記事が、11月30日の読売新聞都民版に掲載されていました。みどりの実態調査とは何の関連もなく、「江戸切絵図 わが街今昔」という連載の、麻布絵図編で、「大火を防いだ大ガマ伝説」と題して、山崎主税之助の伝説を中心に、がま池を紹介したものです。
 がま池の所有者、渡辺慧さんも出てきます。当時81歳で、池の縁の問題のマンションに住んでいました。いつ頃ハワイからお戻りだったのかはわかりませんが、渡辺慧、ドロテア著「時間と人間」のはしがきには、
一九七八年八月二十日、麻布蟇池にて
と書いてあるところをみると、昭和50年代はじめにはもうこちらに住んでいたようです。

・・・このがま池、ここ二十年ほどの間に、ぐるりを(と?)建物に囲まれてからは、地元の人でさえ「いまでもまだあるんですかね」という具合で、すっかり存在感が薄れている。そこで、がま池を見せてもらおうと、マンションを訪ねた。
池を所有し、そのふちに立つマンションで暮らしているのは、物理学者の渡辺慧さん(八一)。量子力学の理論家で、科学哲学者としても活発に発言し、東京大学など国内外の大学で教べんを執ってきた。渡辺さんの祖父、伊藤博文内閣の蔵相も務めた国武氏の代から、がま池の主でもある。
 渡辺さんは気安く求めに応じてくれた。池の周りは、マンションを覆い隠すように竹が茂り、中央の小さな島には赤い橋がかかって、池はそこだけ、ぽっかりと過去の姿をとどめていた。
 「残念ながら、いまはカエルは住んでいないようだね」といいながら、渡辺さんが見やった池に、ゆったりとコイが泳いでいる。池に面したバルコニーには、カエルの置きもの。
 半生を海外で暮らしてきた渡辺さんは「やはりここの環境はすばらしい。申し訳ないぐらいです。」と漏らす。
 ほんと、一度でいいから「申し訳ないぐらいです」という気持ちになるような生活をしてみたいなあ。別世界ですね。これは。

 それはともかく、渡辺慧さんは、この記事の2年後、平成5年に亡くなりました。

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