しかし、ここで、皆様には「なぜ、その人を取り上げるのか。」という疑問が湧いていることでしょう。実を言うと、「かえるクラブ」としては、どうしても取り上げなければならない理由があります。それは、彼と、彼を取り巻く一連の事件をモデルとして、木下順二が「蛙昇天」という戯曲を書いているから。 菅季治の自殺は1950年のことでしたが、この「蛙昇天」は、翌51年に早速雑誌「世界」の6、7月号に掲載され、さらに52年には未来社から単行本が出版、6月13日〜15日まで、ぶどうの会第七回試演会として、三越劇場で初演されている、非常にタイムリーな作品でした。ちなみに、我が「かえるクラブ」では、1952年に未来社から出た単行本の初版を持っております。自慢です。すいません。 主人公の名前は「シュレ」。他の役も、「コロ」「ガー氏」「グー氏」「グゥェロ委員」等完全に「蛙世界」の出来事として扱っています。 内容は、まさに菅季治がたどった運命をそのままなぞるような話で、政治に対する痛烈な風刺劇となっていますので、この後、菅季治の話を読んでいただければ、粗筋もわかると思います。その前に「かえるクラブ」としてまず問題にしておきたいのは、つぎの2点。 1.「蛙昇天」は、「かわずしょうてん」と読むのか「かえるしょうてん」と読むのか。 2.作者木下順二は、なぜ、特定の政治事件を「蛙の世界の出来事」として書きたかったのか。 で、1の答え。 (前略)自作について書いてみると、自己弁護になったり、作品を書き終えたあとの考えをつけ加える文章になったり、それはそれで意味もあるのでしょうが、やはり結局あらずもがなの解説というあと味を自分に残すことが多いようです。今度の『蛙昇天』の場合も、ですから作品自体についてはあんまり書きたくありません。ただこの題はカエル昇天と読んで頂きたい。大した理由もないのですが、題を考えた最初から、「カワズ」という音は僕の頭の中に浮かんでいませんでした。それからこれは冗談ですが、しかし実話ですが、ある人はこの戯曲の題名を誰かから耳で聞いて「買わず商店」だと思いこんでいたと僕にいいました。“不買同盟”問題の芝居だと思っていたのだそうです。「かえるしょうてん」が正解。冗談は今一つですが。 そして2の答え。 『蛙昇天』の場合は、執筆前年に起ったなまなましいあの大事件を人間の登場する芝居として書いたのでは、どうしても現実に拘束され、観客の持っている現実の知識によって芝居の内容が限定されてしまうと考えた。かといって架空の国などを持ってくれば、現実との間隙が却って空疎な印象をつくってしまうだろう。ならば例えば蛙の世界に置き換えることで、現実を離れた現実として、事件を典型化することはできないか。---そして、どこまで成功したかは分らないその典型化が、蛙の世界ということと相俟って、現代の事件を一種民話化したということになったのだろうと思う。木下順二は、民話劇とリアリズム劇の2系列に作風が別れる人ですが、リアルな出来事を、一旦大幅に架空の世界に持っていくことで、一つの「典型」、時代から離れた人間性の本質みたいなものを抽出した「典型」として民話化するという、2つの作風の橋渡し的作品を意図したようです。 残念ながら、それが『蛙』でなければならなかった必然性は語られていません。舞台で視覚化することを前提にしている都合上、擬人化しやすい蛙のフォルムを利用した、という所でしょうか。 さて、軽く蛙話題をこなしたところで、最も気になるポイント、モデルになった事件、木下順二が蛙に託して語ろうとした「執筆前年に起ったなまなましいあの大事件」というのがどういうものであったか、という点へ。実際の事件の詳細を見ていくことにしましょう。 [ ⇒次を読む ] |