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蛙昇天〜ある哲学者の話〜

 ※ 引用文中、文字フォント、文字色等を変更して強調している部分は、当サイトで付したもので、原文とは関係ありません。

■ 日本の敗戦〜ソ連抑留〜帰国 ■

 菅季治に起った事件についてお話をする前に、ざっと、日本史のおさらいをしておきましょう。

● 太平洋戦争末期

 第2次世界大戦について、連合国の優勢が明らかになった1945年2月、アメリカのルーズベルト大統領、イギリスのチャーチル首相、ソ連のスターリン首相の三者が集まり、戦後処理等についての秘密会議を開きました。会議の場所から、「ヤルタ会議」と呼ばれています。アメリカは、この時点では、日本を降伏させるのにまだ多大な時間と損害が必要と考えており、日本を早期に降伏させるため、ソ連の対日参戦が望ましいと考えていました。
 日本とソ連は、日ソ中立条約を結んでおり、互いに戦闘しない約束になっていましたが、当時日本が領有していた千島列島、および樺太の南半分(日露戦争により、日本がロシアから獲得した領土)を、ソ連の領土とすることを条件に、ソ連は、「ドイツ降伏の3か月後に」参戦することを約束します。
 ドイツの降伏が近い4月5日、ソ連は日本に対して、日ソ中立条約の不延長を通告します。4月22日にはソ連軍がベルリン市街に突入、4月30日にヒトラーが自殺し、5月7日、ドイツが無条件降伏します。これにより、ソ連が対日参戦する日は8月上旬に決まったわけです。しかし、中立条約の不延長を通告されていたものの、有効期限はまだ継続しており、ヤルタ会議の内容を知らなかった日本は、ソ連を通じて和平の道を探るという、無駄な努力をすることになります。
 一方、アメリカは、4月12日、ルーズベルト大統領が急死、副大統領のトルーマンが大統領に昇格しました。トルーマンは、東ヨーロッパの解放後、自由選挙によって新しい政府を作ろうとしたアメリカに対し、共産主義者を送り込んで、親ソ政府を作ってしまうソ連のやり方に反発していたこと、ドイツ降伏後の連合国による分割統治において、結果的にその後東西ドイツに別れてしまう程、アメリカとソ連が決定的に対立したこと等を受け、徐々に、日本、朝鮮等アジアについてもソ連と分け合う結果になってしまうことを嫌い(結果的には、中国、朝鮮半島、ベトナム等が分裂してしまうのですが)、何とかソ連が参戦する前に、日本を降伏させる方向で動きはじめます。
 7月16日、アメリカは原子爆弾の実験に成功、7月17日にはポツダム会議を開き、7月26日に、米英中三国首脳の名前で、日本に対し、無条件降伏を求めるポツダム宣言を発表します。これに対し、日本の首相、鈴木貫太郎は、これを黙殺すると記者団に語り、ソ連の斡旋による条件付和平に期待をかけました。


● ソ連の参戦

 ソ連としては、アジアにおける大戦後の発言権、権益を確保するためにも、何とか対日参戦を果たしておくことが必要であり、日本がポツダム宣言を黙殺したのは願ったりかなったりの状況でした。ソ連参戦の期日が近付くのに、日本に降伏の気配がないことにあせったアメリカは、8月6日、広島に原子爆弾を投下します。しかし、日本からの反応はなく、8月8日、ソ連は日本に対して宣戦を布告、翌9日から満州、樺太、千島に侵攻します。日ソ中立条約の有効期限内での宣戦であり、明らかな国際法違反の侵攻でした。ソ連の占領地域が拡大する前に何とかしようと焦ったアメリカは同日9日に長崎へ原子爆弾を投下、8月15日に日本はポツダム宣言を受諾、敗戦しました。
 ポツダム宣言受諾後もソ連は侵攻を続け、千島列島と樺太を完全に占領、満州にあった日本の施設、機材等のほとんどを接収し、2週間にも満たない戦闘で莫大な利益を得ました。


● シベリア抑留

 満州でソ連に武装解除された日本兵は、捕虜としてソ連国内に抑留され、シベリアを中心とした辺境地域の開発を行う労働力として使役されることになります。この中の1人に、菅季治もいました。

 そもそも、ポツダム宣言9条には、「日本国軍隊ハ完全ニ武装ヲ解除セラレタル後各自ノ家庭ニ復帰シ平和的且生産的ノ生活ヲ営ムノ機会ヲ得シメラルヘシ」となっており、捕虜を自国にとどめおいて、強制労働に従事させるというのは、ポツダム宣言に違反するものだったのですが、抑留の期間は、長い人で11年にものぼり、約60万人の抑留者のうち1割近くが死亡する、過酷なものでした。

 菅季治は、自分の所属する部隊にロシア語のできるものがいなかったことから、大学時代に一度、ロシア語を習った経験をもとに独学でロシア語を学び、収容所の生活では、通訳として活躍します。

 ソ連の捕虜収容所は、軍の組織をそのまま作業部隊にあてるような仕組みになっていたことから、依然として将校と兵隊の別があり、食事の差別、日本人による日本人の私的制裁等が残る場所でした。しかし、時がたつにつれ、将校が無条件に指揮者となる制度は廃止され、収容所ごとに委員会を組織し、委員会が運営する形式へと移行していきます。菅季治は、自身が将校でありながらこうした収容所の民主化運動をかなり熱心に行なったようで、自ら階級章をはずし、兵隊と一緒に作業をするなど、積極的に行動しました。

 これらの民主化運動は、ソ連の思惑とも一致し、そのまま共産主義思想教育の場となり、共産主義に反する言動、行動をする人間を、「反動」とか「日和見主義者」とか「ファシスト」などと日本人同士で吊るし上げる、極端なものへとエスカレートしていきます。そして、こうした運動の中心となる反ファシスト委員会は、運動への参加状況等から、その人を日本に帰国させるかどうかについて意見をいう権限が与えられていたため、運動に熱心な者と、その運動に反対するものとの対立は根深いものになっていきました。

 菅は、初期の所内の民主化活動に積極的で、また、後半の極端に政治的になった運動には消極的であったことから、どちらのグループからも、孤立してしまいました。


● 帰国の開始・赤い引揚者と日の丸組

 終戦当初、満州との連絡もつかず、さらに、占領国として、独自に外交することもできなかった日本は、シベリアに抑留されていた人たちの消息についてまったく知ることができず、徐々に、「ソ連に連れていかれたらしい」ということが明らかになるような状況でした。ソ連に抑留されていることを知った後は、占領軍であるアメリカに交渉を依頼し、アメリカとソ連の交渉のなか、敗戦後約1年半もたった1946年末から、ようやく、ソ連捕虜となった人々の帰国がはじまりました。この引揚は、1948年末まで続きますが、ソ連はここで、引揚を中断してしまいます。

 翌1949年5月、ソ連は、日本人捕虜全員を11月までに送還すると発表、6月27日から引揚が再開されました。この再開第一回目の引揚船は、出迎えた人々を驚かせることになります。労働歌を合唱し、出迎えの家族にふりむきもせずスクラムを組んで、集団で共産党に入党しようとする、ソ連の思想教育の影響を大きく受けた人々だったのです。これらの人々は「赤い引揚者」と呼ばれ、この年に帰国した人の多くが、そうした引揚者でした。この頃の引揚者は、共産主義にかぶれているという先入観が人々の中に生まれていく中、菅季治も11月に帰国します。

 翌年の1950年の引揚船は、一転して様子が変わりました。右派、いわゆる反ソ組が圧倒的に増えたのです。 1950年1月23日の朝日新聞を見てみましょう。
日の丸組 手に、胸に「日の丸」
高砂丸きのう全員上陸

【舞鶴発】舞鶴港平沖に一夜を明かした高砂丸引揚者二千五百名は、二十二日朝、婦人三名を先頭に患者、元陸海軍人、軍属、一般邦人の順で上陸を開始、午後三時半までに全員祖国の土を踏んだ。健康者は平収容所で休養、手続きを終え、二十八日発の列車でそれぞれ帰郷するはずである。この朝六時過ぎ記者らは許されてランチで高砂丸に乗りつけた。甲板上ではみんな防寒服、日の丸の胸章をつけ、日の丸の旗をふっていた。ランチが船べりに着いたとたん、船上から声がかかった--「日本人が故国に帰ったのだ。そこの記者君、その赤い首巻きをとってくれ」そして突如、船の一角から「異国の丘」が朝モヤをついて流れはじめ、やがて歌声は、アラシのように船全体を包んでいった。幾度か迎えたソ連引揚船で初めて聞く「異国の丘」であった。涙で迎える家族や関係者の胸をうつ「君が代」の合唱---やがて上陸が始まった。

アクチヴ袋だたき

【舞鶴発】ナホトカから帰国の途中、高砂丸船内で左右両派の対立があり、引揚官の説得で一時解消したが、二十一日夜半舞鶴港平沖で仮泊中ついに爆発、アクチヴ(左派の指導者)二、三名が“日の丸組”から袋だたきにあったことがわかり、援護局側では関係者から事情を聴取している。
 ソ連で吊るし上げられ、帰国を遅らされ、ソ連べったりに見えたアクチブを目の敵にしていた右派の人々の様子がわかります。こうした人々は、「日の丸組」と呼ばれました。

 菅季治の身に起ったことは、この抑留者同士の対立、そして、米ソの深刻な対立という背景が大きく関係しています。
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